2009年01月28日
岡室 氏は今日もがんばったぞ!: 承久の乱の背景
なるほど…。こんな事があったんですね。
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治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心に諸国に守護、地頭を設置し、警察権を掌握していたが、西国は支配しきっておらず依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。
後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置し軍事力の強化を行っていた。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条女院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。
承久元年(1219年)1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。『承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して、近年では後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐することとなった。
幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾伊賀局(元は白拍子の亀菊)の所領である摂津国長江荘、倉橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面の武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残る結果となった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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